【就活記録】人との関わり方って
大学三年生の新歓の時期に後輩からこんなことを言われた。
「どうしたらそんなに人とうまく話せるんですか?」
いわゆるコミュニケーションの取り方がよく分からないということなのだ。
普段人と当たり前のように接する、他人から言われないと気づけない点である。
これをきっかけに自分を振り返ってみた。
そこで分かったことは、私は相手と話しているときに原因と結果を
分析しながら話していることに気づきました。
例えば、友達と歩いているときを想定してほしい。
僕「おなかすいてない?」
相手「いや、すいてないよ」
僕「(なんでだろう・・・?)」
おなかすいてない理由
⇒おなかいっぱいだから、ダイエットしてるから、節約してるから、彼女に振られた(喪失感など)、ラマダン等
自分の中で疑問が生まれたら、可能性のある想定を頭の中で行う。
想定するものは、マックスウェーバーの社会的行為の4分類によって想定すると分かりやすい。
※マックスウェーバーの社会的行為の分類
目的合理的行為
将来の目標を設定し、それを目指して動く行為
⇒ダイエット、節約
価値合理的行為
宗教などのある価値観を信じることで行う行為
⇒ラマダン
感情的行為
自らに起こった感情によって動かされる行為
⇒幸福感、喪失感
伝統的行為
習慣などで形成されたなんとなくのルールによって動く行為
⇒昼飯を抜く
では、なぜこの行為を行うことが人とうまく話せることにつながるのか。
それは、相手との気持ちのすれ違いをしないからである。
例えば
僕「おなかすいてる?」
相手「いや、すいてないよ(ダイエットしてるからお昼抜く!!)」
僕「(あれ?でもおなかすいてそうだぞ??
もしかしてお金ないのかな?なら出してあげよ!!!!)
近くに美味しいケーキ屋さんがあるから行こうよ!!
ここは俺が持つからさ!!」
相手「あっ.....うん。いこっか(カロリーが・・・)」
ってな感じで優しさが、ありがた迷惑になってしまいます。
言い換えれば察しが悪いのかもしれませんね。
僕は、この察しの能力が周りより敏感なのかもしれません。
ここで村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」から引用する。
人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。
この言葉を聞いて感じたことは、相手の長所に対して共感する時は高めあったり尊敬できる友人関係になる。反対に自分の周りにばれたくない短所に対して共感する時には、共感より調和する深い関係になることが多いことを感じた。
もしかしたら、私は相手のことを察するように心がけているので
相手の長所を尊敬し、短所は慰めあいながら理解しあっているのかもしれない。
なので、僕は人よりうまく話せているのかもしれません。